八海山のこだわり

No.9 酒母を造る(前編)

ステンレス製の容器(暖気樽)の中に熱湯を入れ、酒母の温度を上げる操作を行う(暖気<だき>操作)。この中に氷水を入れて、酒母の温度を下げるための冷温器としても使用している(写真は冷温器として使用)

酵母を育む、文字通り“酒の母”なる酒母

酒母は“もと”(酉へんに元)とも言います。どういうわけか、蔵うちでは昔から酒母(シュボ)よりも、“もと”と言うほうが好まれるようです。そのほうが何となく勢いが感じられるからでしょうか。
「ちょっともとを見てくる」「もとの湧きがいいな」などという言い方をします。「湧き」というのは、酒母の中の酵母が元気よく増殖し、活発に活動していることです。ついでに、ちょっとおさらいしておきましょうか。麹菌も酵母も微生物であることは同じですが、役割がちょっと違います。

麹菌の生成する糖化酵素はお米のでんぷん質を糖化(ブドウ糖に変えること)します。酵母はその糖分をアルコールに変えます。これが並行複発酵(麹菌の作り出す糖化酵素による糖化発酵と、清酒酵母によるアルコール発酵)ですね。言い換えると、麹菌と酵母が力を合わせてお酒を造るわけです。しかも、麹や酵母はアルコールを生成してくれるだけでなく、お酒の味や香りにも関係しますから、とても大切なのです。
ですから、どんな酵母でも構わないというわけにはいかないのです。自然界にはそれこそ星の数ほどと言ってもいいくらいに、実に多種多様な微生物が存在していますが、日本酒造りに役立つ酵母は、ごく限られています。ところが、酵母はどこにでもいますから、うっかりしていると、酒造りの邪魔になるような酵母が入ってきてしまうことにもなりかねません。こういう酵母を野生酵母と言います。

昔の酒蔵では、蔵に住みついた酵母を利用していたところもありましたが、現代の酒蔵では、間違いのない酵母だけを使っているところがほとんどです。こういう酵母も、元はと言えば自然にある酵母なのですが、酒造用の酵母として役に立つことが確認されたものです。何種類かありますが、いずれも日本醸造協会などの専門家が性能を確かめたものばかりで、最近では人工的に育種してすばらしい特徴を持った酵母も利用できるようになりました。
酒母はそういう美味しい酒を造る能力を持った酵母だけを大量に育てたものですが、では、余計な酵母が入らないようにするために、酒蔵はどんな工夫をしていると思いますか。半導体の製造工場のようなクリーンルームの中で酒母を造っているのでしょうか。外部の空気が入らないようにクリーンルームの中の気圧を少し高くして、出入りする時はエアカーテンを通り抜けて?

とんでもない。そんな酒蔵はどこにもないでしょう。酒母を造るところはもと(酉へんに元)場(モトバ)と言いますが、もと場は簡単な引き戸があるくらいです。エアカーテンもありません。それどころか、窓を開けて外部の空気が入り込めるようになっているところもあります。
出入りする蔵人だって、とくに酒母造り用の服装をしているわけではありません。いつものユニフォームです。

酒母は酒母桶(タンク)で造りますが、その酒母桶にしても簡単な蓋を乗せる程度で、別に密閉しているわけではありません。実に開放的な状態で酒母を造るわけです。それでも、邪魔な野生酵母が入り込まない。これは一体どういうことでしょうか。
野生酵母はどこにでもいる。いろいろな酵母が風に乗って飛んでくる。ところが、酒母桶の中には酒造りに役立つ酵母しか存在しない。実に不思議なことですが、ここにも日本酒造りの知恵が込められているのです。

淡麗辛口の味わいを目指し、手間隙かけて酒母を造る

酒母の仕込から7~10日目頃はタンクから溢れるほど泡が上がっているので、泡笠(あわがさ)と泡消し機をタンクに乗せ、泡が溢れるのを防ぐ。

麹造りにも多くの知恵が注ぎ込まれていますが、酒母造りだって負けていません。そのカギとなるのが硝酸還元菌と乳酸菌です。よく知られている生もと酒母や山廃(やまはい)酒母は、それらの働きをうまく利用した造り方でできるのです。

山廃手法による酒母造りには約1カ月間かかります。期間を短縮して安全・確実な酒母造りということで発明されたのが普通速醸酒母や高温速醸酒母です。
普通速醸酒母と高温速醸酒母には、それぞれ長所と短所がありますが、八海醸造では普通速醸で酒母を造っています。高温速醸では、酒母の糖化発酵のピーク時の温度は55℃にもなりますが、八海醸造の普通速醸酒母はピーク時でも18℃でしかありません。高温速醸酒母は仕込んでから10日程度で完成しますが、八海醸造では14日もかけて酒母を完成させます。

コストや手間を考えたら、高温速醸のほうが良いという考え方もあるでしょう。現に高温速醸で酒母を造っている酒蔵も少なくありません。それぞれ、一長一短があるからです。では、八海醸造ではなぜ、わざわざ手間隙かけて、普通速醸で酒母を造るのでしょうか。それは同じ酵母を育てても、高温速醸と普通速醸では酵母の性質が違うからです。

八海醸造が造ろうとしている酒は、淡麗辛口の酒です。すっきりとして、しかも、ちゃんと日本酒らしい味わいがあり、品格が感じられる酒。呑み終えて杯を置いた時、「ああ、今日はいい酒を呑んだな」という満足感が胸の奥からひろがっていくような酒。そんな酒なのです。そのため、もろみを仕込んでから酒を搾るまでの「もろみ期間」を長く取って、低温で発酵を進めていきます。その時、高温速醸の酒母では、発酵の後半になると、力不足になりやすいという傾向があるようです。そのため、八海醸造では普通速醸で酒母を造っています。
ところで、この酒母造りでも、まずモノを言うのは水です。どんな水で酒母を仕込むか。そこが問題なのです。次回は酒母と水のお話から始めて、八海醸造の酒母ができるまでをご紹介します。

記 1999年  井出耕也[フリージャーナリスト]

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