八海山のこだわり

酒蔵の「おっかさま」第3回

八海醸造の「おっかさま」、南雲仁が語る酒蔵の昔 vol.3 昔話になりますが… 八海山の大黒柱、杜氏の話をしましょうか

「話さなくてもわかる」杜氏の後ろ姿

「八海山」仕込水の源流「雷電様の清水」

前の杜氏の高浜春男さんの話でしたね。
あの人はうちの蔵にとって、こういう言い方をしては失礼でしょうが、本当に「当たり」でした。野積(新潟県寺泊町。昔から酒蔵に働きに出る人が多く「杜氏の里」と呼ばれる)の人で、ちょうど南雲和雄が社長になるころうちに来て下さり、それから40年ちょっと杜氏を務めてもらいました。
和雄が社長になったのは、昭和29年かと思います。高浜さんに来てもらったのが昭和34年。当時、高浜さんは34~35歳でした。それでも高浜さんは杜氏としては若い方だと思います。
その間、小さなお金のない酒蔵だった八海醸造もだんだんにヒトサマに知られるようになりましたが、それもこれも和雄の考えに協力していただいた高浜杜氏の真ッ正直な酒造りと、それを支えた人たちのお蔭だと有り難く思っております。

高浜さんは、杜氏としての能力はもちろんですが、やっぱり人格的にも優れていらしたのですよ。
わたし思うのですが、しゃべってわかる仕事よりも、言わなくったってわかってもらう仕事でないと仕事とは言えないかなと・・・。人の上に立つものが、若い人のやること全部に目を光らせてやろうなんて大それたことを考えちゃいけません。言わなくてもわかってもらわなくてはダメで、そうなると人格がモノを言いますよね。

神様が与えて下さった名コンビ

「八海山」の工場の中で最も古い本社工場。現在も稼働中

和雄もよく申しておりました。酒屋の商いでも商売上の手練手管はいろいろあろうが、本当のことを本当に、ケレン味なく後ろ指さされることなく、口先上手でなくって、本当のことを通した人や仕事を世間は認めるんだって。世間はきっと見抜く。それまでみんなで我慢をしようと。その言葉通り、よくぞみんなが我慢をしてくれたものだと、私は心からお礼を言いたいのです。
高浜さんは蔵人のしつけで、まず下足をきちっとさせていました。ちょこっと蔵へ入るときでもきちーッと揃えるように言ってました。そういう細かいけれど基本のところをびしッとすることで自分の姿勢を伝える。ああでなくては若い人は育たないかと思います。
野積は日本海に面した漁師町です。だから高浜さんも言葉はけっこう荒いです。そのうえガンコで、ダメなことは絶対ダメ。わたしも、まあよくぞ言うよと思うようなキツいことをよく言われました。わたしも申しましたからおあいこですけど。
でもね、人間が非常に上等です。だから好きです。あの人、美男子ですよ。アハハ。
ただ、ああいう性格だと、よそではうまく勤まらなかったかもしれません。バカがつくぐらい正直で、正義感が強くって、ちょっとでも間違ったことはやらんというタイプ。相手が和雄じゃなかったら、たぶんうまくはいかなかったかもしれません。
和雄もまた、税務署なんかごまかしたって得なことはない、税金は払いすぎれば戻ってくるからごまかしは絶対やっちゃいかん、というような人でした。だから高浜さんのような人でなければダメでしたね。高浜杜氏と和雄は、本当に神様が与えて下さった組み合わせだと思います。
それでいういと、和雄に高浜さんを紹介してくださったのは、前回お話しした田中先生ですから、田中先生はやっぱり有難い方でした。

聞き手・文 宮本貢  写真 鈴木芳果

南雲 仁/なぐも・あい

八海醸造の先代社長、南雲和雄夫人。和雄社長を陰ながら支え、現在の蔵の礎を築いた。評判の手料理でたびたび来客をもてなしてきた。酒蔵で働く人びとからは親しみをこめて「おっかさま」と呼ばれている。

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