八海山のこだわり

No.4 変わる蔵、変わる人

三重県鈴鹿のホンダの工場に出稼ぎしていたころ。写真左腕組みに腕章のある人物が若き日の南雲氏

(俺はなぜ今年も酒蔵で働くのだろうか。俺の本業は百姓だ。蔵の仕事は辛いし、あの重苦しい空気も好きになれないと思っている。それなのに、毎年、秋になると、蔵で働きたくなってくる。これは、いったい、どういうわけだろうか)
製造部の南雲重光次長は、若い頃、そんな風に首をひねりながら、八海山の蔵にやってきたものだ。
ほんとうに毎年、毎年、そんな状態だった。二年や三年どころの話ではない。南雲次長は、地元の高校を卒業した後、二年ほど、冬場は三重県鈴鹿のホンダの工場に出稼ぎに行き、オートバイの組み立てラインで働いた。鈴鹿の工場は同年代の若者もたくさんいて、楽しい職場だった。第一、鈴鹿の冬は六日町と違って、雪に埋もれるようなことはない。
しかし、誘われるままに、出稼ぎをやめて、八海山の蔵で働き始めた。昭和47年の秋のことで、南雲次長はまだ21歳になったばかりだった。酒蔵の仕事は鈴鹿の工場とは大違いだった。
新入りの仕事は下働きからだ。仕込みタンクの洗浄もやった。3トンの米が入る大きなタンクの中に水桶を担ぎ下ろして、手が切れるような冷たい水を使って、ブラシでタンクを洗うのだ。
蔵には米を蒸す釜もあるのだが、この頃は、タンクを洗う時もお湯など使わなかった。だいたい、釜は神聖なものだ。女性には手も触れさせないことになっているぐらいで、ホースで水を引いたりするようなことは許されなかった。
桶と手で心を込めて丁寧に洗うものと決まっていたのだ。タンクの洗浄は造りが続いている間は、毎日、繰り返される。
(春が来るまでに、俺はいったい何本のタンクを洗うのだろうか)
と、若い南雲次長は、ため息まじりで何度も計算したものだ。

蔵の空気は重苦しくて暗かった

その後、分析の仕事を任されるようになった。酒の甘辛やアルコール度、酸度などをチェックする仕事だ。だが、最初のうちは、分析をすませて上の人のところに持っていっても、分析結果をまとめた紙は、そのままごみ箱に捨てられてしまうという日々が続く。
「せっかく調べたのに、ろくに見てもらえないで、私の目の前でごみ箱にポイですからねえ。いやあ、涙が出ましたよ。若い者がやった結果なんて信用してもらえなかったんですね。上の人は経験がありますから、そんなものは見なくても、今日の酒はどんな具合かわかりますしね。いや、ちゃんと見てくださいなんて言えないですよ。下の者が何か言えるような雰囲気じゃなかったですからね。口ごたえなんて、とてもとても…。その場で荷物をまとめて蔵を出ていく覚悟があれば別ですが」
この頃の蔵では万事がそんな調子で、若い者に手取り足とりで仕事を教えるような雰囲気はどこにもなかった。若い働き手はただ上の人間が言うままに動くだけでいい。それが南雲次長が来た頃の蔵の空気だった。
「休憩時間も静かなものでしたよ。今は若い人も自由に好きなように過ごしていますが、私らが若い頃はそれこそ口もきけなかった。広敷という畳敷の大広間で休むんですが、世間話に花を咲かせるなんてとんでもない。黙ってタバコをふかしているだけですよ。大きな声で笑ったりすると、上の人から静かにしろと怒られますから。それはもう今とはぜんぜん違いますよ。とにかく、重苦しくて、暗かったですねえ。まあ、受け止め方は人それぞれですけど、私はそういう風に感じましたね」
おまけに、上には、何十年も酒造りをしてきた先輩たちがいる。その人たちがいる限りは、何年たったら偉くなれるというあてもない。

冬が近づくと蔵が恋しくなる

冬が終わり、春が来ると、いよいよ酒蔵の仕事が終わる日が来る。最後の日、若い南雲次長は足取りも軽く蔵を後にする。明日からはもう蔵に来なくてもいいのだ。蔵を出るとすぐに雑貨屋がある。その角を通り過ぎて家に向かいながら、南雲次長は開放感を胸いっぱいに味わい、
(よし、蔵で働くのはこれっきりで終わりにしよう、来年は絶対に来るものか)
と自分に言い聞かせたものだった。家には4町6反の田んぼもある。
ところが、夏が過ぎて、稲刈りが近づく頃になると、蔵のことが気になってどうにも仕方がなくなるのだ。そして、やはり、去年と同じように蔵に足が向いてしまうのだ。
「どういうわけですかねえ。なぜか蔵で働きたくなってしまうんですよ。仕事は辛いし、蔵の空気も暗いのはわかっているんだけど、私のような若い者にも、みんなで一生懸命、いい酒を造っていこうとしているのがわかりましたから、そのせいですかね。職人の良さというのかな、ああ、この人たちはいいなあと思って、自分もその中にいるんだと思って、張り合いというか、喜びがあったんでしょうかね。そういう状態でずっとやっていたんですが、おかしなもので、40代になる頃には、私の気持がどんどん酒造りに向いてきたんです。今でも、家で米は作っていますが、もう、気持の上では、酒造りが本業だと思っていますよ」
と南雲次長は言う。
首をひねりながら、毎年、蔵にやってきて、酒造りを続けているうちに、いつのまにか、麹と酵母の匂いが体に沁みこんでいき、酒造りが生き甲斐になってしまったのだ。
「昔風の考え方かもしれないけど、私はちょこちょこと仕事を変わるのはあまり好きじゃないんです。そういう人間はどうも、どこか信用がおけないような気がしてね」

杜氏集団から酒造りの技術者集団へ

戦後だけ見ても、酒造りを取り巻く環境は変わり続け、全国の酒蔵がその変化の中で翻弄されてきた。
八海山の蔵も10年ぐらい前から目に見えて以前とは違ってきた。
今は、休憩時間の広敷で、若い人が大きな声を出して笑っても、上の人に叱られるようなことはなくなっている。
日本の酒造りを担ってきた杜氏集団はほぼ壊滅状態となり、もはや復活は望むべくもないということは誰もが認めるところだ。
そのため、どの蔵も、杜氏集団に頼らず、酒造りの技能者を自ら育成することを迫られているというのが現状だ。日本酒ブームと言われる一方では、酒造りの基盤そのものが大きく揺らいでいるのだ。
八海山の蔵の酒造りの組織も、今は、かつての杜氏組織をそのまま会社の組織の中に取り込んだような形に変わり、それぞれの部門の担当者が責任を持って酒造りをする体制になっている。新しい技能者集団へと変わろうとしているのである。
製造部次長という南雲次長の肩書きは、以前なら、頭(かしら)と呼ばれた役回りだ。頭は杜氏の片腕となって酒造りの先頭に立つのである。
しかし、もう、南雲次長のことを頭と呼ぶ人はいない。また、かつての頭は、杜氏集団の強いつながりの中で腕を磨いたのだが、南雲次長は杜氏集団から出てきた頭でもない。新しいタイプの頭だ。

酒蔵特有の言葉が消える

酒蔵特有の言葉もどんどん消えつつある。麹造りを担当する麹屋、酒母を担当するもと屋、蒸米を担当する釜屋、しぼりを担当する船頭。そんな酒蔵言葉を知らない若い蔵人も増えた。若い蔵人は、船頭という言葉を聞いても、酒蔵になぜ船頭がいるのだろうかと、きょとんとしているという。
それに加えて、昔のように、何も考えずに、言われたことだけをやれという調子では、今の若い蔵人はついていけない。では、いったい、どんな風にして、杜氏集団が担っていた酒造りの技を蔵のものにしていけばいいのか。
それが蔵の新しい課題になっている。

酒造りの歴史は技術革新の歴史だ

しかし、新たな課題への挑戦は、今に始まったことではない。日本の酒蔵は次々に挑戦を繰り返しながら続いてきたのだ。酒造りという仕事は昔からあるから、昔ながらのやり方で酒が造られてきたと思っている人もいるだろうが、それは誤解というものだ。
もちろん、日本酒の基本から外れることはないが、酒造りの歴史は技術革新の歴史でもあった。技術という言い方が大袈裟すぎるなら、工夫と言い替えてもい。
たとえば、以前の日本酒と言えば甘ったるい酒、重い酒というのが通り相場だったが、もう、それは完全に過去の話になりつつある。今の日本酒はすっきりとした中にも味わいのある酒が主流になった。
そのために米の精白を上げる努力が積み重ねられて、いまや、八海山の酒は、普通酒でさえも、吟醸酒の範疇に入る精白度に到達している。造る酒のすべてが吟醸酒の精白などという酒蔵が現れるなんて、少し前までは、夢でしかなかった。
その夢を現実のものにできたのは工夫があったからだ。
だが、そんな酒蔵の技術と工夫を培ってきた杜氏集団が、いまや、姿を消そうとしているのである。彼らの根っこには強烈な職人魂があった。彼らとともに、そのスピリットも消えようとしている。
彼らの職人魂が消えた後、酒造りの新しい技能者集団は何を支えとして技を磨くのだろうか。その問いに対する答えを見つけることが、八海山が新たに挑戦しようとしている大きな目標なのである。

先輩たちの技術を黙って学ぶ時代は終わった

だが、難しい時代だ。もう昔風のやり方は通用しない。師匠に従い、技術だけでなく、その風貌や仕草、あるいは、たたずまいからも仕事を学んでいくという時代は終わったのだ。
これからの時代は蔵人のひとり一人の誇りが酒造りを支えていくことになるのだろう。たとえば、98年の冬、大吟醸の酒母を初めて担当させてもらった田中勉はこんな風に言う。
「大吟の酒母を造るときは、毎日、朝6時に蔵に来て、それから2時間つきっきりで面倒を見てやるんです。そうやって、糖化と発酵のバランスを取りながら、何日もかけて、温度を上げたり下げたりしていくわけですが、その兼ね合いが難しいんですよ。酒母は最初のうちは甘ったるい匂いがしています。しかし、日がたつにつれて、酵母のいい匂いに変わってくる。その変化も面白いし、表面が泡立ってきて、酒の面が毎日変わっていくのを見てるだけでも、ワクワクしますよ。酒蔵で仕事をしている以上、大吟醸は絶対にやらせてほしいと思ってましたし」
大吟醸の酒母ともなれば、昔は若い者は近づくことさえできなかった。新しい力が蔵を支え始めているのだ。田中の年齢はまだ三十代の半ばである。

新酒鑑評会で毎年入賞することは永遠の挑戦

南雲次長は毎年の全国新酒鑑評会で入賞することを大きな目標にしている。
「鑑評会の結果は他の酒蔵に比べてどうかということではないんです。自分たちの技術が試される場だと思っています。だからこそ、何としても、結果を出したい。うちの蔵では、上の人も、鑑評会でいい成績を取れというようなことは言いません。しかし、期待されていることは痛いほどわかっていますから、何が何でも結果を出したい。もし、給料と入賞とどっちを取るかといわれたら、迷わず入賞を取る。そのくらいの気持でやっているんです。鑑評会は毎年ありますし、去年はいい成績を取ったから、今年は大丈夫だろうということはないんです。毎回が一からの挑戦です。永遠の挑戦ですよ」
そのかたわらでは、普通酒を担当している若い蔵人が、「いや、鑑評会で入賞することも大事だが、私は普通酒が大事だと思っています。一番、たくさん飲まれているのは普通酒なんですから。普通酒が勝負です」と力を込める。
新しい時代の技能集団が着実に育ちつつある。

飲むたびに感動して納得する

南雲次長は毎晩、父親と一緒に八海山で晩酌をする。一升瓶が三日で空になる。毎日飲んでも飽きるということがないそうだ。
「いいものですよ。毎日、飲むたびに、ああ、こういう酒ができたのだと納得できるし、これが自分たちが造った酒なのだという喜びもある。その日の気分や体調に応じて、自分の姿なりに楽しめるのが酒です。こういうことって、他の仕事ではあまりないと思いますよ。たとえばね、毎日、同じ湯呑みを作っているとして、毎日、毎日、その湯呑みを使うたびに、感動できますかね。造っているのが酒だから味わえる喜びだと思うんですよ」
 高浜杜氏と南雲次長は親子と言ってもいいほど年が違う。生まれも経歴もまったく違う。しかし、酒造りにかける気合のようなものは同じだ。不思議なことだ。

※文中に出てくる肩書き、年齢は当時のものです。

記 1998年  井出耕也[インターネット・パイロット]

この記事をシェアする
このページの先頭へ