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八海醸造初の鉄筋蔵の竣工式。田中先生が熱心に指導してくださっていた、昭和31年~32年頃。

おっかなくて、酒好きな「先生」
 まるで地震か台風でも来るような騒ぎだった。
「先生が蔵に来るぞ」
 その一言で蔵の空気がぴんと張りつめたものだ。何しろ、怖い先生だった。蔵の中にうっかり藁縄でも置き忘れていようものなら、たとえ蔵人の責任者がもう寝ていても、叩き起こさせた。そして、「こんなものが置いてあったら、蔵の中に余計な菌がはびこる元になるではないか。いったい、お前は何を考えているのだ。そんないい加減な考えで酒を造っているなんてとんでもないことだ」
 と1時間でも2時間でも怒るのだ。
 おまけに酒が好きで、蔵に来れば必ず夜中の1時、2時まで飲んだ。その相手をするのもまた一苦労だった。当時は石炭を燃料にして米を蒸していたのだが、その蒸米が釜から出てくるのが朝の5時。大きな蒸釜の水が盛んに湯気を上げるまでには時間もかかるから、釜に火を入れるのは午前1時、2時という真夜中だ。だから、先生の酒に1時、2時まで付き合うということは、次の日の仕事が始まる頃まで付き合うということになってしまうわけだ。
 このおっかなくて、酒好きな「先生」とは元関東甲信越国税局鑑定官、田中哲郎のことだ。田中はすでに故人となっているが、八海山の蔵にとっては忘れ難い人だ。田中はほとんどその生涯を通して、新潟の酒蔵の指導を続けた、その酒造りに賭けた思いは八海山の酒造りの中に今も生きている。
 田中はすぐれた指導者であった。
「田中先生は辛口とか甘口とか、そんなことは一切言わなかった。いい酒を造れとそればかり言っていた。辛ければいいとか、甘ければいいとかそんな次元じゃないのです。きれいな酒。品格のある酒です。それが先生の目指していた酒だった。そういう酒を突き詰めていくと、結局、淡麗辛口で、しかも、幅もあれば、うまみもあるという酒になるのです」

 と南雲和雄会長は語る。

目指したのは鍛錬の場としての大吟醸酒造り
 田中は技術指導をするだけでなく、酒蔵が目指すべき目標も教え、その目標に少しでも近づくための鍛錬の場として、大吟醸酒造りを強く奨めた。
 酒が不足して、酒なら何でも売れた戦後の一時期、わざわざ高精白の米を使い、心身ともにすり減らしながら大吟醸酒を造るなんて馬鹿馬鹿しいことだと考えた蔵も少なくなかった。しかし、そんな時代でも田中は大吟醸酒にこだわり、八海山は大吟醸酒を造ることをやめなかった。
 大吟醸酒は売っても元が取れない酒だ。いや、売ろうと思っても、誰でも買えるような値段にはならないから売れない酒だった。それでも八海山は大吟醸酒を作り続けたのである。若い南雲二郎社長も言うのだ。

「どんなに苦しい時も大吟醸酒を造ってきた。これがうちの蔵の強みになっていると思う。理想を言うなら、うちで造る酒はすべて大吟醸酒にしたい。それは無理な注文なのはわかっていますが、それでもいいのです。大吟醸酒を目指すという気持が大事だと思うのです。いま、うちの蔵では、普通酒を造っている人も含めて、みんなが大吟醸酒という高い目標に向かって気持をひとつにして仕事をしています。大吟醸酒がみんなの目標になっているわけです。そういう目標があるということがうちの最大の強みであり、財産だと思います」

死ぬまで蔵の指導を続けた
 田中は新潟市の旧家の生まれ。父親は軍人と伝えられている。長岡高等工業学校(現新潟大学工学部)の化学科を卒業した後、新井市の酒蔵で2年間、酒造りを実地に勉強し、昭和5年、できたばかりの新潟県醸造試験場に入った。さらに、その後、国税局に移り、昭和29年に退官するまで、酒類の鑑定官として勤務する傍ら、求めに応じて、新潟の酒蔵を中心に酒造りを指導していた。
 退官の1年前の昭和28年には、田中を指導者として、新潟県内の15蔵と長野の1蔵あわせて16の蔵が集まって研醸会という研究会が結成され、昭和49年2月、脳溢血で急死するまで指導を続けた。最後に倒れた時も、指導していた新潟の酒蔵を訪問中だった。
「田中先生の指導は厳しかったが、何でもかんでも自分の枠にはめるというやりかたではなかったですよ。それぞれの蔵の杜氏の経験や知識、使っている水などに応じて、実にきめ細かく指導していた。ただ、言う通りにしないと怒ったから、頑固だとか短気だとか言う人もいたけど、先生というのはだいたいわがままなものだから、それは仕方がないでしょう」
 と高浜杜氏も懐かしそうに語るのである。
 家庭的な幸福にはあまり縁のない人でもあった。二人の息子に恵まれたが二人とも若死にし、晩年は奥さんと二人きりの生活だった。その奥さんも故人となり、田中を知る人も少なくなった。

 

 
「田中先生は蔵に祀っている松尾様よりも偉い」
酒席で。一番右端が田中先生。

 田中は酒造期には1日に2軒から3軒の蔵をまわったが、南魚沼の蔵をまわる時は六日町の八海山と隣りの塩沢の青木酒造(鶴齢)で泊まるように予定を組んでいた。和雄会長の父親は「田中先生は蔵に祭っている松尾様よりも偉い」と言っていたぐらいで、田中のほうが自分よりも年下なのに心服しきっていた。田中が蔵にやってくる日は、朝から火鉢に赤々と炭をおこして待ち構えた。
 五日町の駅で出迎えるのだが、駅から蔵に戻る道でもう酒造りの話が始まって、蔵に到着すると、すぐに蔵の中を見てまわる。そして、タンクをひとつひとつチェックして、そのタンクの酒の分析データを確かめ、醪の面を見たり、香りをかいだりしながら、細かいところまで指導していった。

 

 それが終わってからやっと夕食となるのだが、夜の9時半を過ぎてから夕食ということも珍しくなかった。しかし、蔵の人間も蔵の主人の南雲家の家族も、田中の指導が終わるまでは夕食に箸をつけないでいた。
夕食が終わった後は、いよいよ田中の酒が始まる。相手をするのは和雄会長だった。和雄会長も弱いほうではないから、ふたりでどんどん飲み、和雄会長が疲れると、最後は高浜杜氏が田中のお相手を引き継ぎ、田中が最後にビール2本で仕上げをして、ようやくお開きとなる。
 その間、話をするのは田中で、和雄会長も高浜杜氏ももっぱら聞き役だ。時には和雄会長の妻の仁(あい)もお給仕に加わった。

 

「儲かる酒のほうがいい・・・、あれを聞いた時ほど悲しいことはなかった」
 そんなある晩のことだ。田中がぽつりと言った。
「私が指導していた蔵の親父が息子の代になってね。東北大出の息子なんだが、その息子にこの間、言われてしまったよ。先生が言うようないい酒はうちの蔵にはいりませんってね。もっと悪い酒でも儲かる酒のほうがいいと言うんだな。あれを聞いた時ぐらい、俺は悲しいことはなかったよ」
 それは新潟の蔵ではなくて、和雄会長も仁も行ったこともない蔵だ。まして、その息子の顔も知らない。
 だが、田中の言葉に胸をつかれた仁は、
「先生、申し訳ありません」

 と手をついて謝ってしまった。同じ酒造りを家業としている家の人間として、謝らずにはいられなかったのだ。仁にも田中の胸のうちは痛いほどわかった。

 

兄弟蔵を育てる
鉄筋蔵建設現場。この蔵は今も現役。

 八海山がまだ小さな蔵だった頃も、また、灘の酒が全盛だった頃も、田中はとにかくいい酒を造れと言い続けていたが、少しも儲からないのに、手間は他の酒の何倍もかかる大吟醸酒造りに音をあげて、大吟醸酒を造らない蔵が多くなり、ついには会の中では越の寒梅の石本酒造と八海山という二つの蔵だけが大吟醸酒を造っていた時期もあった。石本酒造も田中から長く指導を受けていた蔵だったが、それ以来、田中は「寒梅と八海山は兄弟蔵だ」と言うようになった。
 その後、越の寒梅がまず幻の地酒として地酒ブームの先頭を切り、続いて八海山も評価を高めて新潟の酒が注目される時代が訪れたのである。田中が二人の息子を失った空虚さを埋めようとしたかのように、兄弟蔵を育ててから逝ったのだった。

 

 

 
※文中に出てくる肩書き、年齢は当時のものです。
 
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井出耕也[インターネット・パイロット]

 

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