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昭和30年代後半の高浜春男氏(右)と、当時支配人で、今は専務取締役の富所義五郎氏(左)。

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八海山の杜氏、高浜春男氏(製造部長)は大柄な人だ。声も大きい。尋常高等小学校(戦前の一時期、小学校の後、さらに2年間の尋常高等小学校があった)を卒業した後、すぐに酒蔵で働きはじめ、それ以来、71歳の現在まで、ずっと酒造りの仕事をしてきた。
高浜氏が生まれ育った新潟県・野積(のづみ)では、学校を出てすぐに酒蔵で働き始めるのは、まったく珍しいことではなかった。野積は杜氏の里なのである。
「おらの小学校の同級生は40人ぐらいだったかな。その中で杜氏になったのが3人か4人いるわね。なぜ、酒蔵で働き始めたか?さあ、そういう質問をされるのが、一番困るさね。そんな、理由なんて何もないさ。おらのじいさんも杜氏だったし、親父も杜氏だったし、それこそ、おぎゃあと生まれた時から、大きくなったら酒蔵で働くものだと思っていたんですて。何の仕事をしたいとか、したくないとか、そんなことを考えるまでもない。そういうもんだと。今でも覚えているわね。尋常小学校の卒業式が3月25日、野積の神様のお祭りが4月5日で、その4月5日には若い衆がおらを迎えに来て、その日から酒蔵に入ったんですて」
わずか40人の同級生の中で、杜氏になった人が3人も4人もいるというのは、たいへんなことだ。ひとつ上の学年も同じようなものだったという。酒蔵で働くようになっても、杜氏にまでなれるのは、ほんの一握りなのである。
新潟県三島郡寺泊町野積。前は日本海、後ろは弥彦山。海と山にはさまれて田んぼが少し。冬になれば暗い雲が空を厚く覆う日が続き、肌を刺すような冷たい風が吹きすさぶ。そんな厳しい自然が野積を杜氏の里にしたのである。
野積には「弥彦(やひこ)の神様が野積の衆に米作りと酒造りを教えてくれた」という言い伝えがある。神様が米作りだけでなく、酒造りの技まで教えてくれたのは、この土地では、米作りだけではやっていけないことを知っていたからだろう。越後杜氏と言われる人々の中でも野積杜氏は、今でも、有力な一派を形成している。
野積では杜氏になったからと言って、うかうかできない。「最近、あそこの兄やはちょっと偉そうな顔をしているが、あんげな酒を造っているようでは、まだまだだな」などと憎まれ口を叩く年寄りが沢山いるからだ。

「昔の杜氏さんは、格好がよかった」

日本の酒造りは、昔から杜氏を中心とする各地の杜氏集団によって支えられてきた。杜氏集団が形つくられたのは江戸時代の中頃のことだった。毎年、秋になって米の穫り入れが終わると、杜氏に率いれられた蔵人の一団が酒蔵にやってきて酒を造り、次の年の春になれば、郷里に戻っていって、秋になると、再び酒蔵にやってくる。季節がうつり、年が変わっていく中で、杜氏たちはそんな行き帰りを繰り返しながら、日本の酒造りの技を守り、磨いてきたのである。
日本酒をつくるのは難しい仕事だ。単純な発酵ではないからだ。二つの発酵が並行して進みながら酒が生まれるのである。仕込みタンクの中では、麹が米の澱粉質を糖に変え、さらに酵母が糖をアルコールに変える。また、アルコールは酒造りには邪魔になる酵母の働きを押さえるという役割も果たす。(酵母には沢山の種類があり、しかも、その侵入を完全に防ぐことは非常に難しい)。
この麹や酵母の複雑な活動を微妙にコントロールしていって、間違いなく酒にすること。それが杜氏たちの仕事である。杜氏たちはコンピュータも醸造学もない時代から、この技を知っていたのである。
杜氏は蔵人という技術者集団の責任者である。一人の杜氏を頂点として蔵人はピラミッド型の組織になっている。杜氏の下にその片腕となる頭(かしら)がいて、さらに麹を担当する麹屋、もと(酒母)を担当するもと屋、しぼりを担当す船頭、蒸米を担当する釜屋などの人々がいる。杜氏が果たす役割を他のものにたとえるとすれば、オーケストラの指揮者がもっとも近いかもしれない。高浜氏は酒蔵の手伝い仕事から始まって、ほとんどすべての仕事を経験した後、杜氏になった。
「昔の杜氏さんは威張っていたし、格好がよかったなあ。夏になると、県の醸造試験場なんかで酒造りの講習会が開かれるんだが、若い衆を引き連れて講習会にやってきて、終われば、さあ、今日はここの宴会、明日はあっこの宴会と、それは派手だったねえ。おらも早く杜氏さんになりたかったわ。ほんとに」
と高浜氏は修行時代を振り返る。
食事時も杜氏が箸を取るまで、下の者は箸に手をつけられなかった。晩酌をやる杜氏さんの下についた時は、目の前にご飯が並んでいても、食べられるのは杜氏の晩酌がすんでからだった。
誰を蔵人として使うか。それも杜氏の考えひとつで決まる。若い衆の中には、夏の盛りに杜氏の家に行って、田んぼの仕事の手伝いをしてご機嫌を取り結ぶ人もいた。また、その頃は杜氏の収入もよかったから、遊ぼうと思えば、かなりの遊びもできた。
高浜氏が杜氏になったのは27、8歳の頃だったというから、酒蔵で働くようになってから12、3年ということになる。これはかなり早い。
「今の若い人に話してもわからんだろうが、おらたちの若い頃はたいへんだったわ。おらも杜氏さんの猿股を洗うところから始めて、それから洗い場の親方になって、それから、こんどは洗米の親方になって、釜屋になって、船頭になって、もと屋になって、麹屋になって、頭(かしら)になって、それから杜氏になったんですて」
高浜氏はそんな風に、やってきた仕事をひとつひとつ指折り数えるようにしながら、教えてくれた。その表情も口調もどこか懐かしそうだった。それはもう二度と戻ってこない古き良き時代なのだ。高浜氏と同じような道をたどって杜氏になる人は、これからは、もういなくなるだろう。

高度成長が杜氏集団の強い結びつきを崩した

日本の酒造りの技の世界はいま大きな変化の中にある。冬場は農業ができない土地の人々にとって、酒造りは昔はいい仕事だった。忙しい時は早朝から深夜まで働かなくてはならないし、楽な仕事ではなかったが、それでも、酒蔵に行けば、寝るところや食事の心配はなかったし、冬場の仕事として悪い仕事ではなかった。その中で、杜氏集団の強い結びつきも生まれた。
それを壊したのは昭和30年代に始まった高度成長だった。都会には沢山の出稼ぎの場所が生まれた。いや、出稼ぎどころか、その気になれば、郷里を離れて安定した勤め人になるチャンスも広がった。
そして、農村から都会へ奔流のような人口の移動が起こり、その大波の中で、酒蔵で働きたいという若い人は激減した。酒蔵のほうでも合理化と機械化を進めた。酒蔵の数も減った。昭和20年代には全国に4000の酒蔵があったが、いまでは、1600を切ったのではないかと言われている。小さな酒蔵が次々につぶれていったのだ。
杜氏集団もこの大きな変化と無関係ではいられなかった。以前のような徒弟制度を維持することは不可能になり、酒蔵の社員となる蔵人が増え、杜氏集団の強い結びつきは根っこのところから崩れていった。
杜氏の高齢化も進んだ。平成7年の調査では杜氏の平均年齢は61・8歳である。ほとんどの会社では定年になっている年齢だ。日本の酒造りの技を支えてきた杜氏組織は、崩壊に向っているという人もいる。杜氏の数は全国で1500人程度である。将来は酒蔵の社員として採用された人々の中から杜氏が誕生するようになるだろうと言われている。

税務署を説得して酒の保税倉庫を実現した

高浜氏が八海山の杜氏に迎えられたのは昭和34年のことだ。杜氏として酒蔵に入るのは八海山がふたつめだった。その前は京都の酒蔵にいた。八海山に来ないかという話は、先輩から高浜氏に伝えられた。先輩はみっつの酒蔵から杜氏がほしいという話があるから、どれか選べと言った。ひとつは八海山、ひとつは糸魚川の酒蔵、そして新潟市の酒蔵だった。
糸魚川は新潟でも西のはずれ。八海山がある六日町は雪が多いことで有名だ。新潟なら雪は少ないし、野積も遠くない。ところが高浜氏は八海山に行くことにした。糸魚川では遠すぎるような気がしたし、新潟のような町中も好きではなかったからだ。それから南雲和雄会長との二人三脚の酒つくりが始まり、今も続いているというわけである。
「話には聞いていたけれども、最初の冬は、雪のすごさに驚いたね。あの頃は道路の雪も、屋根からおろした雪も、みんな踏み固めていたから、家の屋根と同じぐらいの高さになってしまってね。家に入る時は雪の中を下にもぐっていく。家に入れば入ったで、窓も何も雪で塞がっているから昼間から裸電球をつけている。火事になったらどこに逃げていいかわからんさね。それで、これはたいへんなところに来たと思ったけれども、あの当時の六日町は僻地でさ。逃げようにも逃げていかれねえんだわ。五日町の駅まで4キロも5キロもあるしさ。それであきらめて、ここにいることにしたんだが、スルメと同じことで、噛めば噛むほど味が出てくるという具合で、気がついたらば、家にもあんまり帰らないで、年中、ここにいるようになって、もう40年の上もいたことになってしまった」
と高浜氏は顔をほころばせる。
その頃の八海山の酒蔵では冬の出荷は大仕事だった。トラックなどという便利なものは、まだ珍しい時代だ。冬の出荷は、そりに酒を乗せて、人の力で駅まで引いていったのである。その後、これではたまらないので、雪が来る前に駅前の倉庫を借りて酒を貯蔵しておくことにしたが、酒蔵が酒蔵以外のところに酒を貯蔵するには税務署の許可が必要になる。出荷すれば税金がかかるのである。だが、出荷するわけではないから、倉庫に移しただけでは税金はとらないで、実際に出荷した時に税金を払うようにしてほしいという要望を税務署に出した。一種の保税倉庫である。
税務署は「外国貿易港ならともかく、冬の出荷がたいへんだから保税倉庫を許可したなどという前例はない」と渋ったが、何とか説得して、この保税倉庫は実現した。魚沼では初めての保税倉庫だった。輸出入をするわけでもないのに、保税倉庫ができたのは確かに前例がなかっただろう。

二人の頑固者はいい酒をつくることだけを考え続けた

八海山に来た時、高浜氏はまだ32、3歳。蔵の若い衆をしかりつける高浜氏の大きな声は蔵の外まで響いた。しかも、下の人間がどんなに反発しようと、こうと決めたら滅多なことでは変えなかった。それが高浜氏の考える杜氏というものでもあった。
「杜氏というのは物差しさね。物差しがじくじく動くようではどうにもならん。いったんこうやると決断したら、そうせんば駄目だ。まずやってみて、それで駄目だったら、また、考え直せばいい。だけど、物差しが途中でふらふらして、あっちに行ったり、こっちに行ったりしたら、おかしなことになってしまう」
そんな風に言う時の高浜氏の表情には厳しいものがある。
実は南雲会長も頑固者だ。保税倉庫が実現したのも南雲会長が頑固だったからだ。自分のほうが正しいと思えば、役所が相手でもケンカした。
高浜杜氏と南雲会長。二人はひとつしか年が違わない。南雲会長のほうがひとつ下である。高浜氏は酒が飲めない。そういう体質なのだ。南雲会長は反対に酒が好きだ。
「俺が飲もうと思っても、親父さんがみんな飲んでしまうから、いつまでたっても酒が飲めるようにならんかった」と高浜氏が言えば、南雲会長は「何を言うか。毎年、夏の頃には何とかビールを1杯か2杯飲めるぐらいまで仕込んでやったのに、お前さんは、秋になると、酒造りが忙しいとかで飲むをやめてしまうから、いつまでたっても腕があがらんのじゃないか」と切り返す。
この二人の頑固者は、どういうわけか、うまがあった。南雲会長が自分の物差しに従って、どんな酒をつくるか方針を示す。すると、それを実現するにはどうすればいいか、高浜氏は高浜氏で、自分の物差しを使いながら智恵と工夫をこらす。毎年、毎年、二人の頑固者は、いい酒をつくるにはどうしたらいいか、そのことだけを考えながら、酒を造り続けたのである。
「とにかく全部まかせてもらったからね。それに白い米も使わせてもらった。だから、働き甲斐もあったし、それで、うちの酒の評判もだんだんよくなってきたから、張り合いもあった。ここの親父さんみたいに口を出さずに、杜氏にまかせることができる親父さんは何人もいませんて。酒蔵の親父にしてみれば、自分の財産を使って他人に酒をつくらせるわけだし、まして、大学でも出ているということになれば、黙っていられなくなるんだろうけども、ここの親父さんは口を出さずにまかせてくれた。どんな時でも、白い米を使わせてくれたのも偉いし、口を出さなかったのもたいしたもんだ。そんなことは誰にでも真似できるというものではないですて」

酒蔵の親父さん次第で杜氏は手品師になる

吟醸酒の条件のひとつに精白度合が60%以下という条件がある。八海山ではもっとも精白度合の低い酒でも60%以上のものはない。すべてが吟醸と言ってもいいくらいに精白度合が高いのだ。
端麗辛口、しかも酒としての幅があり、うまさもあり、何よりも品格がある。そんな酒が八海山の目指している酒だからだ。その結果、八海山の純米酒は50%の精白になってしまった。
純米酒はうまみが強い。しかし、ともするとうまみが強すぎることが多い。飲みはじめはいいが、飲みすすむうちに、そのうまさが邪魔になってしまう。その余計なうまみを押さえるために、八海山の純米酒は50%精白にしているのである。50%と言えば、大吟醸酒クラスの精白度合だ。
高浜氏は言う。
「純米酒を造る時、親父さんに言われたのは、純米酒らしくない純米酒を造ってくれということだけだったね。だから、米を白くしたわけだが、米を白くしなかったら、じゃあ、精白をあげさえすれば、親父さんがいうような純米酒ができるのかというと、そういうわけにもいかん。純米酒は酸の成分が出やすくなるから、それを押さえるためには、ある程度、辛口にせんば駄目だとか、いろいろ難しい問題も出てくる。白い米は手間もかかる。だから、使いにくい白い米を使いながら、いい酒をつくるのは、これはこれで、なかなか面倒なんですて。酵母の選択も考えねばなんねえし、低温にせんば駄目だし」
いい酒を造ろうと思うなら、まず、精白度合の高い白い米を使わなければならない。
それは第一条件だ。だが、それだけでいい酒ができると思ったら大間違いだ。その米を使いこなす技術があってこそ、白い米が生きてくるのである。技術がなければいくら白い米を使っても、たいした酒はできない。白い米を使うということは、酵母にとっては活動しにくい状態にするということでもあり、発酵が進みにくくなる。最悪の場合、発酵せずに終わってしまう。それをちゃんと酒にしていく技を磨き、受け継いできたのが杜氏たちなのである。
だが、高浜氏はさらにこんな風に言う。
「杜氏さんの腕はみんな一緒。杜氏さんの腕の良し悪しなんて、酒蔵の親父さん次第ですて。昔はよく酒屋のサンマの胴抜きということを言ったもんです。酒蔵の若い衆はサンマの頭や尻尾ばかり食わされて、胴は主人方が食う。そんな風では、若い衆がほんとにいい酒をつくろうという気になれますかて。ここの蔵はそんなことはなかったし、白い米も使わせてくれた。それは、おらはほんとに有り難いと思っている。だいたいが、杜氏は手品師ではないからさ、まず、米が黒くては、いい酒をつくるなんてできるわけがないんですて。そして、米の一粒でも無駄にしないで、丁寧に酒をつくらんばならんし、また、それが消費者にも伝わるようなものでないと意味がないというもんですて」

酒造りの技術者集団は形を変えて生き残る

南雲会長は高浜氏のことを「目立ちたがり屋の反対。目立たがらず屋」と言う。マスコミの取材にあれこれ答えることも好きではない。若い衆を引き連れて、肩で風を切ってあるくようなことも嫌いだ。そのかわりに、自分がつくった酒が、高浜春男とはどんな男であるか、1000の言葉を費やすよりももっと正確に伝えてくれるはずだ。そんな風に考えているのだと思う。野積の口うるさい年寄りもうなるような酒ができたのなら、確かに、それ以上に何を付け加える必要があるだろうか。
酒造りの世界も機械化が進んでいる。まだ機械にまかせているだけでは、いい酒はできないが、かつてのような杜氏が出てくる基盤は、残念ながら、もうほとんど失われてしまった。高浜氏の世代が杜氏らしい杜氏の最後の世代になるかもしれない。だが、酒が造り続けられる限り、酒造りの技術者集団は形を変えて生き残るだろう。八海山にも東京の大学で醸造学を学んだ若者が活躍の場を求めて就職してくるようになっている。次の時代の杜氏や蔵人は、どんな人々だろうか。かつての杜氏の技と酒造りにかけた思いは、どんな風にその若者たちに受け継がれていくのだろうか。

 
※文中に出てくる肩書き、年齢は当時のものです。
 
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井出耕也[インターネット・パイロット]
   

 

 

 

 

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