| + | + (俺はなぜ今年も酒蔵で働くのだろうか。俺の本業は百姓だ。蔵の仕事は辛いし、あの重苦しい空気も好きになれないと思っている。それなのに、毎年、秋になると、蔵で働きたくなってくる。これは、いったい、どういうわけだろうか) 製造部の南雲重光次長は、若い頃、そんな風に首をひねりながら、八海山の蔵にやってきたものだ。 ほんとうに毎年、毎年、そんな状態だった。二年や三年どころの話ではない。南雲次長は、地元の高校を卒業した後、二年ほど、冬場は三重県鈴鹿のホンダの工場に出稼ぎに行き、オートバイの組み立てラインで働いた。鈴鹿の工場は同年代の若者もたくさんいて、楽しい職場だった。第一、鈴鹿の冬は六日町と違って、雪に埋もれるようなことはない。 しかし、誘われるままに、出稼ぎをやめて、八海山の蔵で働き始めた。昭和47年の秋のことで、南雲次長はまだ21歳になったばかりだった。酒蔵の仕事は鈴鹿の工場とは大違いだった。 新入りの仕事は下働きからだ。仕込みタンクの洗浄もやった。3トンの米が入る大きなタンクの中に水桶を担ぎ下ろして、手が切れるような冷たい水を使って、ブラシでタンクを洗うのだ。 蔵には米を蒸す釜もあるのだが、この頃は、タンクを洗う時もお湯など使わなかった。だいたい、釜は神聖なものだ。女性には手も触れさせないことになっているぐらいで、ホースで水を引いたりするようなことは許されなかった。 桶と手で心を込めて丁寧に洗うものと決まっていたのだ。タンクの洗浄は造りが続いている間は、毎日、繰り返される。 (春が来るまでに、俺はいったい何本のタンクを洗うのだろうか) と、若い南雲次長は、ため息まじりで何度も計算したものだ。 蔵の空気は重苦しくて暗かった
|
+ | |||||||||||
| 杜氏集団から酒造りの技術者集団へ 戦後だけ見ても、酒造りを取り巻く環境は変わり続け、全国の酒蔵がその変化の中で翻弄されてきた。 八海山の蔵も10年ぐらい前から目に見えて以前とは違ってきた。 今は、休憩時間の広敷で、若い人が大きな声を出して笑っても、上の人に叱られるようなことはなくなっている。 日本の酒造りを担ってきた杜氏集団はほぼ壊滅状態となり、もはや復活は望むべくもないということは誰もが認めるところだ。 そのため、どの蔵も、杜氏集団に頼らず、酒造りの技能者を自ら育成することを迫られているというのが現状だ。日本酒ブームと言われる一方では、酒造りの基盤そのものが大きく揺らいでいるのだ。 八海山の蔵の酒造りの組織も、今は、かつての杜氏組織をそのまま会社の組織の中に取り込んだような形に変わり、それぞれの部門の担当者が責任を持って酒造りをする体制になっている。新しい技能者集団へと変わろうとしているのである。 |
![]() |
||||||||||||
| 製造部次長という南雲次長の肩書きは、以前なら、頭(かしら)と呼ばれた役回りだ。頭は杜氏の片腕となって酒造りの先頭に立つのである。 しかし、もう、南雲次長のことを頭と呼ぶ人はいない。また、かつての頭は、杜氏集団の強いつながりの中で腕を磨いたのだが、南雲次長は杜氏集団から出てきた頭でもない。新しいタイプの頭だ。 |
|||||||||||||
酒蔵特有の言葉が消える 酒蔵特有の言葉もどんどん消えつつある。麹造りを担当する麹屋、酒母を担当するもと屋、蒸米を担当する釜屋、しぼりを担当する船頭。そんな酒蔵言葉を知らない若い蔵人も増えた。若い蔵人は、船頭という言葉を聞いても、酒蔵になぜ船頭がいるのだろうかと、きょとんとしているという。 それに加えて、昔のように、何も考えずに、言われたことだけをやれという調子では、今の若い蔵人はついていけない。では、いったい、どんな風にして、杜氏集団が担っていた酒造りの技を蔵のものにしていけばいいのか。 それが蔵の新しい課題になっている。
|
|||||||||||||
+
| (C) Copyright
1999 HAKKAISAN BREWERY CO.,LTD. All rights reserved. |
|||||||


